【コラム】解消すべき「不」、あえて残す「不」――料理家・長谷川あかりさんの言葉から考える

マーケティングの世界では、「顧客の『不』を発見し、それを解消すること」が重要だと言われています。ここでいう「不」とは、不便、不満、不足、不安のことです。

もちろん、この考え方は今でも有効です。実際、多くの優れた商品やサービスは、人々が抱える何らかの「不」を解消することで支持を集めてきました。

しかし、料理家・長谷川あかり氏のインタビューを読んでいて、とても興味深い発言に出会いました。

「あまりにも簡単すぎると、『わざわざ手をかけて作った料理!』という感覚が得られず、少し損した気持ちになってしまうんです」※1

長谷川氏自身も、「やらなきゃいけないものを主体的にやっている感覚にすり替えてくれるレシピ」を目指していると語っています※1。これはまさに、「料理をしなくて済む状態」を目指すのではなく、「やってみようと思える状態」を目指す発想です。言い換えれば、義務感を主体性へと変える、そこに長谷川氏のレシピのポイントがあるのかもしれません。

合理的に考えれば、料理は簡単であるほど良いはずです。しかし、不便や手間を取り除きすぎると、料理をした実感や達成感まで失われてしまう。そこに、何となく物足りなさを感じる人もいるのではないでしょうか。

長谷川氏のレシピが支持されている理由の一つは、難しさや大変さという「不」を減らしながらも、楽しさや充実感までは消していないことにあるのだと思います。彼女が目指すのは、単なる「簡単・時短」ではなく、作る人の気分を上げ、自分自身を癒してくれるような料理です。そこには、「疲れていても、自分をいたわるために料理をする」という、現代的な価値観が見えてきます※2

これは料理に限った話ではありません。私自身、四半世紀にわたって作詞作曲を続けていますが、近年はAIにプロンプトを入力すれば、歌詞もメロディもアレンジも短時間で生成できるようになりました。その能力には驚かされるばかりです。

しかし、私は単に「完成した曲」が欲しくて作詞作曲をしているわけではありません。ふと浮かんだメロディに乗せる言葉を探し、歌の節回しを考え、試行錯誤しながら形にしていく過程そのものが楽しいのです。
もしAIが一瞬で理想の曲を完成させてくれたとしても、それだけで創作の喜びが満たされるわけではないのです。
また、作った曲をライブで演奏する喜びもありますが、そこに至るまでにスタジオでバンドのメンバーとリハーサルを重ね、曲を仕上げていくプロセスこそが、何よりもワクワクする体験なのです。

料理も同じでしょう。私たちは必ずしも「不」の完全な消滅を望んでいるわけではないのです。望んでいるのは、自分を疲弊させる過剰な負担が取り除かれた上で、自分が関わった実感や達成感が残ることなのではないでしょうか。

近年、「ご自愛ください」という言葉を見聞きする機会が増えました。セルフケアやセルフメディケーションという考え方が広がる中で、人々は単に便利さや効率性だけを求めているわけではないようです。無理をせず、自分をいたわりながら、それでも少し前向きな気持ちになれる体験を求めているのではないでしょうか。

こうした考え方は、「不便益」という概念とも通じています。不便であることが、かえって価値や満足をもたらすという考え方で、京都大学の川上浩司氏らが提唱しています。「あえて残す『不』」は、単なる妥協ではなく、体験の豊かさを生む積極的な選択である、ということです。

今後は、マーケティングにおいても、「どうすれば『不』をなくせるか」だけでなく、「どんな手間なら心地よく感じられるのか」という視点が重要になるのかもしれません。

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〈備考〉

※1:出所は以下の通りです。LEE公式サイト「私のウェルネスを探して/長谷川あかりさんインタビュー前編 【長谷川あかりさん】オーディションに落ち続け、すり減った心が『料理』『レシピ』によって救われた感覚を、より多くの人と共有したい」、2025年4月5日公開、2025年4月7日更新、https://lee.hpplus.jp/column/3191098/、2026年6月23日閲覧

※2:冒頭の画像は筆者(鈴木雄高)が長谷川あかり氏のレシピ通りに作った料理の写真です。その日はかなり疲れていたのですが、仕事を終えて気分転換したかったこともあり、ちくわとジャガイモの料理を作りました。ちょっとしたセルフケアになったと思います。味もおいしくて満足です。実際のレシピは以下のウェブページに掲載されています。
ESSE online「人気料理家が繰り返しつくる『ジャガイモとちくわのバター煮』。奥深い味わいに驚愕<長谷川あかりさんレシピ>」2024年1月17日公開、https://esse-online.jp/articles/-/27232