【コラム】私たちをだまし討ちする広告 ―― ダークパターンと、広告本来の役割について

嫌われる広告

スマホで記事を読もうとして、指がふっと止まる瞬間があります。

「あれ?閉じるボタンはどこ?」

記事の上に出現した広告。×印はあるにはあるのですが、やたらと小さかったり、色が背景に溶け込んでいて見えなかったり。あるいは、「close」の文字列が円弧上に書かれていて見つけにくかったり。仕方なく、適当な場所をタップすると、案の定、広告のリンク先に飛ばされてしまい、溜め息をつきつつブラウザバックする。このような一連の動作を、もう何度もしています。

以前であれば、「うるさい広告だな」と思うだけで済んでいたはずなのに、最近は、少し様子が違うように感じるのです。

たとえば、記事の上の広告の隅に小さな文字で書かれた「残り10秒で終了」というカウントダウン。広告を消すためには、何秒か待たなくてはなりません。最近の私たちは、数秒待つだけでもストレスを感じます。焦って画面のどこかを触ってしまうと、また10秒に戻っている。

また、SNSのタイムラインに、フォロワーの投稿とまったく同じ見た目で紛れ込んでくる広告も目にします。一般の投稿ではなく、広告であることを示す「PR」の表記は、探さないと見つからないくらい小さい字で、あるいは薄い色の文字で添えられています。

このような、「間違えさせる」「気づかせない」仕掛けには、名前がついています【注1】。「ダークパターン」と呼ばれる、UXデザインや行動心理学の知見を悪用した手法群です。私たち、ユーザーの偶然のミスではなく、そのような操作をさせるように「設計」されているのです。そう聞くと、正直、ぞっとしませんか?

かつて感じていた、リターゲティング広告に追いかけられる嫌悪感(検索した商品が、行く先々のサイトについてくるあの感じ!)も、十分不快だったのですが、現代のそれは、もう一段階、悪質さが増している気がします。単に「煩わしい」だけではなく、「間違えさせて、クリックさせる」ことそのものが目的化しているのです。

こうした広告が増加し、ウェブやSNS上にあふれている状況は、当該商品やサービスに対するユーザーの嫌悪感につながるだけでなく、企業広告やマーケティングという営みそのものに対しても、静かな、しかし確実な悪評を積み重ねているようにも思います。

広告を出稿する企業の担当者や、広告の掲出場となるWebメディアの運用者は、自分たちの営みが、ユーザーのどのような感情を生んでいるかを知り、今後の広告のあり方を真剣に考えるべきタイミングが来ているのかもしれません。


その「1万クリック」を喜んでよいか

とはいえ、企業側にもメディア側にも、それぞれの言い分はあるはずです。「効果が出ているから」やっている。数字がそれを証明している、と。

広告主は「1万クリック獲得!」という報告を受けて、きっと少し安堵します。でも、その中の何割かは、「×ボタンを押そうとして間違えて開いてしまい、舌打ちしながら即座に閉じた人」であるはずです。おそらく、思っているよりずっと多いはずです。広告閲覧者のうち何割が、このような行動をした人であるか、把握していないのであれば、今すぐ調査すべきです。問題は、何割か、という定量的な指標だけではなく、むしろ、見たくもない広告を見せられることでユーザーにどのような感情が芽生えるか、という定性的な部分にあるかもしれません。ユーザーに対するインタビューなどを通じて、閲覧者の意識、インサイトを理解しようと努めるべきです。

ダークパターンを駆使するなどして、力づくで覚えさせたブランド名は、認知にはなっても、好感にはなりません。むしろ逆です。「あ、あのしつこい広告を出している企業ね」と記憶され、「今度何か買うときは、絶対あそこでは買わない」というリストに追加されていきます。プロモーションのつもりが、コストをかけてアンチを育てているのだとしたら、これほど割に合わない話もありません。

ウェブメディア側も、事情は似ています。閉じるボタンが極小のポップアップ、画面を覆い尽くす広告――それを載せれば、短期的なPV単価は上がるかもしれません。でも読者は、口には出さなくても、ちゃんと学習しています。「このサイト、なんか居心地悪いな」「読もうとするたびに邪魔されるな」と。そして、静かにブラウザの「戻る」を押して、二度と戻ってこなくなります。

メディアというのは本来、「読者が心地よく読める場所」を提供する存在だったはずです。お金さえもらえれば、どんなに品のない広告主にも喜んで枠を貸す――そういう姿勢は、広告主だけでなく、メディア自身の価値を、自分の手で少しずつ削っていることにならないでしょうか。

今、立ち止まって考え直すべき広告のあり方

ここまで、ずっと同じような話が繰り返されてきたのかもしれません。「広告は嫌われている」というのは、今に始まったことではないですから。

でも、ここ数年で、少し潮目が変わってきている気がしています。

ユーザーの広告リテラシーは、確実に上がっています。AdBlockは当たり前のように使われ、SNSの広告投稿も、慣れた人ほど一瞬で見分けてスクロールを止めません。心理的なスキ――誤操作、不快感への反射、ふとした好奇心――を突く「ハック」の手法は、効き目が薄くなりつつあります。いたちごっこの果てに、ユーザー側がだんだん一枚上手になってきている、というのが今の状況に近いのかもしれません。

つまり、「間違えさせて、クリックさせる」という発想そのものが、コストパフォーマンスの面でも、既に賞味期限を迎えているのです。たとえ、今はまだ数字が取れていたとしても、見られているだけの広告効果はきっと出ていないはずです。だとすれば、後戻りできる今のうちに、立ち止まって考え直しておいたほうがよいのではないでしょうか。

「標的」ではなく、「パートナー」として

広告というのは、もともと何のためにあったのでしょうか?「欲しい人に、欲しい情報を届ける」という、ただそれだけのことだったはずです。情報を届ける架け橋であり、欲しいものを見つける手助けです。このような、わりと素朴な役割から始まっているように思います。

それがいつの間にか、「ユーザーの注意を奪い取るゲーム」のようになっています。ユーザーは「攻略すべき標的(ターゲット)」になり、広告は「体験を横取りして人質に取る存在」になってしまったのです。

でも、そろそろ原点に戻ってもいいんじゃないでしょうか。ユーザーを、出し抜く相手としてではなく、一緒に価値をつくっていく相手として見る、という考え方に戻るのです。誠実な情報を、適切なタイミングで届ける。望んでもいないタイミングでほしくもない情報を見せたりはしない。地味に聞こえるかもしれませんが、遠回りに見えて、実はいちばん近道なのではないかと思います。

まとめ

本稿の内容は、これまで散々語られてきたことを語り直しているだけかもしれません。「わかってるよ、そんなこと」と言われそうな気もします。私自身、何かを発信する側に立つこともありますから、偉そうなことを言える立場でもないのかもしれません。

でも、その広告を見た人が、閉じるボタンを探して指をさまよわせているとき、どんな気持ちであるか、想像することは、決して止めてはいけないと思い、わかりきっていることを敢えて綴ったのでした。


〈注〉

1.ダークパターンは、広告以外の場面にも広く見られます。たとえば、無料お試しの登録はワンタップなのに解約の導線だけ妙に階層が深かったり、電話でしか受け付けていなかったり――といったものが、ダークパターンの典型例です。